皆様お久しぶりです。
暫く放置していました。ブログの存在を忘却していたのは内緒(ぁ
世の中には「素人好み」というものが存在する。・・・と言っても、えry動画の話では無い。
例えば、以前読んだ論説文に、こんな話があった。「プロの作家が書いた本より、素人が自費出版で出した自伝のほうが読みやすい」・・・普通に考えて、これはおかしい。文章を書くプロのほうが様々な話を書き慣れており、当然読者にとっても読みやすく参考になる文を書けるはずだ。
――しかし、実際の読者には「素人の文章のほうが親身に感じられる」と受け取られる。これは一体、どういうことなのだろうか?
その理由の一つとして考えられる事は、作家と読者の間に存在する"感覚的なズレ"であろう。
21世紀の現在でも、「作家」というのは超然的な雰囲気を持っているように思えてしまう。チョビ髭に和服を着て、猫の頭を撫でながら原稿用紙に万年筆を走らせる・・・さすがにそれは時代錯誤な話だろうが、それでも作家が「独特の世界感を持った人」だというイメージは、未だに存在するものがある。文章というのは、基本的に誰が書いても同じになるものだ。だからこそ我々は、「プロの作家」が書いた文章に意味を付けるため、作家自身に価値を見出(みいだ)そうとするのだ。
だが、その「印象」が、時に我々を敬遠させてしまうこともある。というのも、"作家"という「おカタい人」が書いた「おカタい話」などと評価されてしまうのである。実態はどうあれ、一度そのように認識されてしまえば、色眼鏡無しで文章を読んでもらうのは極めて難しい。どうしてもイメージが先行してしまうのだ。
逆に、一般人の文章は、そのようなマイナスイメージが存在しない。"文章の構成が稚拙"という欠点でさえも、「素人でヘタクソだなァ」では無く、「素人だから仕方無い」とプラスに受け取られてしまうのである。内容も素人らしく"有り触れた話"であるが・・・それがかえって「親身に感じられる」のであり、読みやすくさせるのである。
具体的に言えば、「長年使つてゐた我(わ)が万年キヰボウドにフルウツ(笑)ジウスを零(こぼ )してしもうた」という文よりも、(;^o^)「後輩のメガネっ娘に恋をしてしまった・・・」という話のほうが、分かりやすくて読みやすいのである。難しくて訳が分からない話なんて、誰も読みたくないしなァ(´・ω・`)
が、しかしである。
「素人好み」によって文章が高く評価されているというのは、結局のところ、文章が正しく読まれていないということに他ならない。文章自身が持つ価値を超えて、それが評価されてしまうのである。ただ単に自分の点数を高めたいだけの人物ならまだしも、仮にも"作家の端くれ"であれば、それは許せない事態であるはずだ。
・・・「内容が正しく評価されない」という危険性を常に孕んでいる、文章作成の世界。それに対して、常に「アクセス数」という形で読者の反響を知ることができ、作者自身のネームバリューも無く、時に真面目に時に馬鹿な話を書きながらも、ひたすら「手軽さ」「読みやすさ」を重視している、この「WEB日記」という形式。
――それは、前述のような文章世界の問題に対して、既に一つの「答え」を出していると思うが、どうだろうか。
おわり